レニングラード(現サンクトペテルブルク)。ドストエフスキーの『白夜』の舞台になったフォンタンカ運河。その川岸に沿った石畳の通りに面してボリショイ・ドラマ劇場が立つ。 1985年のことだから、もう22年も前のことになるが、その劇場で演劇の研修を受けていた。

一日の稽古を終えると、若い俳優・演出家や友人と一緒にペテルブルクの街を散歩した。劇場の通用門を出て、運河に沿ってネフスキー大通りに向かって歩く。しばらくすると、数人の男性群をはべらせた女帝エカテリーナ二世の大きな銅像が立ちはだかる。その威風堂々とした啓蒙君主の姿は、いまだ目に焼きついて離れない。

ところが、その群れの中にロシア初の女性アカデミー総裁がいることなど、気にも留めなかった。それほどダーシコワ公爵夫人については、無知・無関心だった。

 このブックレットは、わが国で初めてダーシコワ(17431810)を紹介する入門書である。その生涯と人柄を分かりやく説明してくれる。

2歳で母を亡くしたダーシコワは、子供の養育に関心がない父親の手から離され、祖母に育てられた後、4歳で叔父に引き取られたという。少女時代に友達はなく、心が通い合ったのは、兄だけだったらしい。

一方、叔父は、ダーシコワに当時としては最高の家庭教育を施したという。読み書きを覚えた少女が孤独の中で見出した喜びは、読書だった。13歳ですでにモンテスキューやヴォルテールなどの啓蒙の書を読み漁り、15歳の時の蔵書は900冊あったという。

思春期のロシア貴族の娘が、
18世紀の最先端を行く知識を貪欲に吸収していたことになる。ダーシコワの関心は、舞踏会で異性の気を引くことではなかった。男性服の着用を好み、サロンで学者に法律や政治をめぐる質問を出すことだったという。

その男まさりの彼女も、将来の夫となる男性と出会う。「誰かに愛されたい」と思い続けてきたダーシコワにとって、かけがえのない愛に恵まれたようだ。夫は夭折するが、ダーシコワにとって、生涯、忘れえぬ最愛の夫となる。

エカテリーナ大公妃と運命の出会いを果たしたダーシコワは、大公妃の「聡明さや高い教養」に惹かれていく。大公妃も、ダーシコワに宛てたという手紙によれば、「友情と信頼」で結ばれていたという。その後、女帝エカテリーナとの関係は、紆余曲折の変遷を辿るが、ダーシコワのほうは、どんな憂き目に遭おうとも「友情」を信じていたとされる。

ブックレットから察する限り、ダーシコワの悲劇には、二つの根が絡んでいたのではいだろうか。

 ひとつは、「情」に基づく信頼関係に潜んでいたと思われる。女帝エカテリーナとの間には、絶対的な身分格差がある。女帝は、ダーシコワの首をも握る専制君主である。ダーシコワは、その最高権力者に仕える身にすぎない。法律や政治面で国政にも影響を与えるような知力を発揮しながら、「情」に身をゆだねることは、それだけですでに身の破滅を暗示する。

もうひとつは、啓蒙思想に熱をあげる人間に見られる「理性」絶対主義である。それは「知」に対する過信を生む。女帝エカテリーナの「知性」に信服したダーシコワの盲点が透けて見える。「知」に長けた人間が「情」を満たしてくれるとは限らない。

 とはいっても、人は誰でも時代の産物である。今は昔となった啓蒙思想全盛期の人間を一刀両断に片付けて涼しい顔をしているわけにはいかない。時代の最先端を握る知性に支えられたダーシコワの勇気と実行力には目を見張る価値がある。

自ら外国に出て、自分の子供に外国で教育を受けさせ、ディドロやヴォルテールなどの啓蒙思想家と直接対話し、女帝エカテリーナを動かし、アカデミー総裁に任命され、ロシア・アカデミー辞典を編纂した。そして、何ものにも換えられない価値は、この縦横無尽の啓蒙活動を成し遂げたのが、
200年以上も前の、差別と偏見に縛られた女性であることだ。

「女性は子供を産む機械」と発言した大臣は、爪の垢でも煎じて飲んだほうがいい。

ブックレットの執筆者・中神美砂さんは、現在、NHKの放送通訳として活躍しながら、東京外大の大学院に通う。著者には、この入門書に続き、これまでのダーシコワ像を揺さぶるような研究の成果を期待したい。

人は、いつも誰かに愛されたいと思っている。愛されずに育った人間は、人一倍、愛を渇望する。愛されるには、人一倍、愛することだ。それだけを信じて、ぎこちなく、しかし、まっすぐに、一途の愛を惜しみなく降り注ぐ。その愛は、何者をも恐れない、自由で強靭な精神力を培ってくれる。

 − この小冊子がそっと啓蒙してくれた教訓である。(
2007227 清水柳一)
 


企画・編集:ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会   発行:東洋書店